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フランシアからルーゴまでのパラグアイの政治の歩み
「時事斜断」
坂本 邦雄
我がパラグアイは独立以来約200年になる今日でも、相変わらず混沌たる迷路を辿っている。協和精神、統一性や悟性の欠如により、何時になっても我が国は貧困の域から離脱できないでいる事は認めざるを得ない。パラグアイ建国の元勲ホセ・ガスパル・ロドリゲス・デ・フランシア総統(1766~1840)の終身独裁政権(1814-1840)に始まり、フェルナンド・ルーゴ現政権に至るまでの間も我々は国家の永続的 繁栄の基礎を確立する術(すべ)を知らなかった。
パラグアイの歴史はアメリカ大陸に於ける初めての人民革命運動に始まる。フランシアは厳重な罰金、租税や収用を以って支配階級に在ったスペイン人、教会及び現地生まれのスペイン人エリート等の特権を剥奪した。斯くして国家は領土の大部分の地主となり、多くの国営牧場を運営し、小農家には借地を行った。
フランシアの独裁政権下で富裕階層は地方農村の繁栄の為に或る程度の犠牲になった。次の重商主義のロペス父子夫々の政権下でも同じく農村は栄えたが、近代的な農政に依ったものではなく、 「宗家ロペス一族」を中心にした “封建的事業”であった。
例のブラジル、アルゼンチン、ウルグアイを相手にした三国戦争(1865~70)の敗戦でパラグアイと共に其の政体モデルは倒れた。其の後の20年間に国有地は廉価で主に外資系の民間企業に払い下げられた。一方零細地主は資金力及び技術援助に欠けて、其の大半は市場経済外で生き延びなければならなかった。三国戦争後の二大政党(リベラル及びコロラド)は二徒党にバルカン化し、政治階層は都市や地方有権者に背き、政権を争い乏しい政府の財政を食い物にするだけを目指すに尽きた。而して、我が国は ‘70年の三国戦争後、世界有数の富裕な国に伸し上がったアルゼンチンの如く、新国際潮流の波に遂に乗り得なかった。
依って、1870年以来の歴代政府は国情の混乱、無秩序、内乱や空洞の政策しか招く事が出来なかった。1870年代からストロエスネル政権誕生(1954)に至るまで44人の大統領が代わった。23ヶ月毎に大統領が代わった勘定になる。なお、チャコ戦争が終わってからストロエスネル政権までの19年の間には11人の大統領が交代した。そして、三国戦争からストロエスネル大統領就任までの84年間中にラファエル・ フランコ大統領だけが唯一の農地改革を行ったが、其の短命政権と共に此れも水泡に帰した。然し何れの大統領も生産業界、特に工業の促進に依る積極的な経済政策の振興に尽くす事はなかった。
ストロエスネルは政治の混乱を強権を以って鎮静し、経済の不安定をIMF・国際通貨基金との協定に依って抑制した。通貨安定政策には各公共機関や政府外郭団体を構成し、インフラ整備工事を 促進し、農民土地所有の均衡化に、大した効果はなかったが、一応の農地改革は行った。此れ等の独創力に依って旧来の沈滞から国勢のブームへと推移した。然し、此れもイタイプ及びジャシレタ両国際メガ水力発電所工事の終了と共に、工業振興政策との折角の連動が計られていなかったが為に、風船玉の様に萎(しぼ)んで仕舞った。
そして、1989年から始まった民主政体の許に、より自由な経済体制への道が開かれたが、政治面ではインプュニティー(処罰されないこと)と腐敗が日増しに悪化した。なお、信用事業のブーム及び金融業務管制の不備が相俟った結果、続発的に財政の危機を招来した。同じく、自由選挙、公正な競合や議会制の本格的な定着は赤党コロラド政権の末期に於いても見られなかった。
此の様にズタズタな国情の処へフェルナンド・ルーゴは急進的な改革を公約して登場したのであるが、今のパラグアイで卑しくも為政者たるには国家的且つ建設的な施政計画を多くのコンセンサスの許に策定し、其れを巧みに施行する至高の能力を備えていなければならない。残念乍ら此れ迄の処、ルーゴ大統領には其の大切な資質が見受けられない。
貧しい教徒等の司教だったルーゴは、貧困層の無能力な大統領になりつゝはあっても其の間に、徒(いたずら)に迷宮を彷徨(さまよ)っているのは当のパラグアイ国なのである。

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tag : 2009年4月15日号
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